なぜこのプロジェクトは、
ローマから始まるのか。
ヨーロッパの都市を歩く中で見えてきたのは、光とガラスが単なる素材や装飾ではなく、 都市の感覚そのものを形づくってきたという事実だった。 その流れをさらに遡ると、私はローマングラスという神秘的な存在に行き着いた。
この導入ページが示すもの
ここでは、なぜ光・ガラス・時間というテーマが、狩野七信氏と ABUKU へつながっていくのかを整理する。 この導入は、プロジェクト全体の根にある視点を示すためのものである。
この線を結ぶことで、ガラスは単なる素材ではなく、感覚と対話する媒介として立ち上がってくる。
ヨーロッパで見えてきた「光の都市史」
私は Venezia / Murano を、光をつくる技術の都市として見てきた。 ガラスそのものの透明性と造形を高め、光をかたちへ変えていく場所である。
Vietri sul Mare では、光は表面に焼き付けられる。 陶と釉薬の反射の中で、南イタリアの強い光が素材文化として定着している。
Paris では、ガラスは光を都市空間へ取り込む建築となる。 パサージュや大きな開口部は、都市の内部に明るさを流し込む装置でもあった。
Wien では、光は輝きへ変換される。 ガラス、金彩、装飾の文化が、都市の豊かさをきらめきとして見せていた。
この4都市を結ぶと、ヨーロッパは一貫して、光を制御し、操作し、都市文化へ変えてきたことが見えてくる。
光をつくる技術
ガラスを洗練し、透明性と造形を高めることで、光そのものを素材化してきた都市。
光を焼き付ける素材
釉薬と表面の反射によって、南の光を器や街の表情へ定着させてきた土地。
光を都市へ入れる建築
ガラスを通して都市内部に光を流し込み、街の体験そのものを変えてきた構造。
光を輝きへ変える装飾
ガラスと装飾が結びつき、都市の洗練や豊かさをきらめきとして表現してきた文化。
その流れを遡ると、ローマに行き着く
しかし、この「光の都市史」をさらに遡ったとき、私はひとつの神秘的なガラスに触れることになった。 それが 銀化ガラス、いわゆる ローマングラス である。
古代ローマでつくられ、長い時間を地中で過ごしたガラスは、 表面に虹色の膜をまとうことがある。 そこにあるのは、人が磨き上げた完成品の美しさだけではない。
そこにあるのは、時間によって変質し、その変質自体が美として現れている状態である。 ガラスはこの瞬間、単なる素材を超えて、時間を記録し、時間を可視化する存在になる。
人がつくる美
技巧、研磨、透明性、装飾。ヨーロッパの都市文化は光を操作することで発展してきた。
時間がつくる美
ローマングラスは、劣化や風化ではなく、時間の作用そのものが美へ転じたような存在である。
感覚へ届く美
その神秘性は、単に見るだけでは終わらず、人の内面に静かな揺らぎを残していく。
ローマは、水も光も都市もつないでいた
ローマに惹かれる理由は、ガラスだけではない。 水道、浴場、テルメ、公共空間、都市計画。 ローマは、人が生きる環境そのものを設計しようとした文明だった。
そこでは、水も、光も、建築も、別々の要素ではない。 それらはすべて、人の状態を変える環境の一部として都市の中に組み込まれていた。
だから私は、スパやテルメを考えていても、都市を考えていても、ガラスを考えていても、 何度もローマへ戻ってしまう。 ローマは、リラクゼーションの本筋である「回復」を、水だけでなく都市全体で受け止めていた場所なのだと思う。
一方、日本は光を受け止めてきた
ヨーロッパが光を強くし、通し、見せ、拡張してきたのに対して、 日本は光をやわらげ、にじませ、揺らし、受け止めてきた。
障子を通る光。和紙に滲む明るさ。気泡やゆらぎを含んだ和ガラス。 そこではガラスは、光を正確に制御する道具というより、 光の質を変え、感覚に届ける媒介に近い。
つまり、ヨーロッパが外へ向かって光を構築したのに対し、 日本は内面へ向かって光を受け止めてきた。 この違いは、このプロジェクトにとって決定的に重要である。
ローマと日本のあいだにある「時間を受け入れる感覚」
ローマングラスの銀化した表面を見ていると、 そこには日本的な感覚に通じるものもある。 均一ではないこと。整いすぎていないこと。変化していくこと。 時間が表面に残ること。
ローマと日本は同じではない。けれどもそのあいだには、 美しさは固定されたものではなく、時間の中で現れてくるという感覚がある。 この視点を持つと、ガラスは単なる工芸や装飾にとどまらず、 時間・感覚・存在をつなぐものになっていく。
そこで、狩野七信氏と ABUKU へつながった
そうした流れの中で、私が注目したのが狩野七信氏だった。 その思想や表現に惹かれたのは、 それが単なる“美しいガラス作品”に留まらないからである。
そこには、光、素材、感覚、そして内面との対話がある。 ガラスは、見るためのものにとどまらず、 自分と向き合うための媒介として扱われている。
この感覚は、ヨーロッパの「光の都市史」と、 日本の「光を受け止める文化」、 そしてローマングラスが示す「時間がつくる美」の延長線上にある。
