Paris
パリは、このテーマの基準点になる都市だ。 廃線がサードプレイスとして生きている理由のひとつは、光にある。
古いガラス窓を通して入る、歪んだ、不定期な光。 ノートルダムのステンドグラスがつくる演出的な光。 そして、La Rochère のようなフランスのガラス文化が、駅や都市空間の細部にまで染み込んでいること。
パリでは、ガラスは単なる素材ではない。 人々を急がせず、行き交う中にも静けさを差し込む装置として働いている。
Vaseは、花を入れるためだけの器にとどまらない。光を受け取り、水を纏い、余白をつくり、人が心地よく居られる空気を整える仕掛けである。 都市が回復・リラクゼーションのために行っていることを、小さな器の中で静かに繰り返しているVase。 ここでは、その構造を言葉にする。
静けさとは、「選択されている状態」である。
余計なものが消え、必要なものだけがそこに置かれている。 そのとき、人ははじめて落ち着く。 目の前にあるものを読み切ろうとしなくてよくなり、空間に対して身構えなくてよくなる。
ここにVaseが効く。 それは主張するためのものではなく、存在することで余計なものを消す仕掛けだからだ。
光は止まらない。 水もまた、止まっているようで止まっていない。 そこに差し込む光は、同じ形を保たず、わずかに揺れながら空間の中に滞在する。
ABUKUのゆらぎは、不連続を呼ぶ。 完全には読みきれない光、均質ではない反射、少しだけ歪んだ見え方。 そのとき脳は解釈をやめる。 そしてそれが、安寧になる。
Third PlaceにVaseが置かれているのは、花を見せるためだけではない。 そこに安堵できる空気を置きたいからであり、静けさと余白を成立させたいからである。
ガラスはただ美しいだけの素材ではない。 オブジェとして眺めるだけなら機能は生まれないが、花瓶、食器、ワイングラスのように、生活の中で使われる器になったとき、 その美しさは人の心地よさを生みながら、日々の営みに寄り添う機能を持ち始める。
Vaseもまた同じである。 花や草木を空間に取り入れるとき、より自然のものがその場と調和し、人が心地よさを感じられるように、 ガラスの形や景色は考えられている。 だからVaseは、単に花を支えるためだけの器ではなく、空間と人の状態をやわらかく整えるための器なのである。
Vaseは、都市が回復のために行っていることを、小さな器の中でやっている。 光、水、余白、静けさ。 回復に必要な条件は、都市にも器にも共通している。
部屋に置かれた花、テーブルの小さな器、ホテルやレストランの控えめなガラス。 それらは装飾ではなく、「居心地のよい」場に整えるためにある。 旅先で器が印象に残るのは、その空間の整え方が見えてくるからだ。
パリは、このテーマの基準点になる都市だ。 廃線がサードプレイスとして生きている理由のひとつは、光にある。
古いガラス窓を通して入る、歪んだ、不定期な光。 ノートルダムのステンドグラスがつくる演出的な光。 そして、La Rochère のようなフランスのガラス文化が、駅や都市空間の細部にまで染み込んでいること。
パリでは、ガラスは単なる素材ではない。 人々を急がせず、行き交う中にも静けさを差し込む装置として働いている。
ローマは、器と回復の原型が眠っている都市だ。 古代の人たちは理屈を知らなくても、壺、花瓶、水、光が寄与することを知っていた。
遺跡の中に残る器の痕跡、水を扱う場所、光の扱い。 そこには「なぜか安らぐ」という感覚が、説明より先に存在している。
ローマは、人が無意識に回復の構造を知っていた都市として読める。
ナポリでは、器は美術ではなく生活の中にある。 テーブルの上に置かれた小さな器や水差しは、何かを誇示するためではない。
屋内と屋外がゆるやかに連続し、光も空気も人の気配も流れ込む。 その中で器は、暮らしの密度を受け止めながら、なお空間を整えている。
ナポリは、Vaseを生活の側から理解させる都市である。
ヴェネツィアでは、光と水が分かちがたく結びついている。 反射、揺らぎ、滞在。 どれも一定ではなく、読みきれない。
その読みきれなさが、人を緊張させるのではなく、むしろほどいていく。 ABUKUのガラスが持つ不連続とゆらぎは、ここで都市的なスケールを持って現れている。
ヴェネツィアは、Vaseの中で起きていることを、都市全体で見せる場所だ。
廃線がサードプレイスとして生きている理由のひとつは、光にある。 古いガラス窓を通して入る、歪んだ、不定期な光。 それは空間を読みきれない状態にし、人を急がせない。
ステンドグラスは、光を演出に変える。 ただ照らすためだけでなく、空気の質を変え、感覚を整える。 それはまさに、静けさの構造をつくる行為だ。
1475年創業のフランス最古のガラスメーカー、La Rochère が シャトレ駅のガラスタイルに使われているのは象徴的だ。 ガラスは単なる素材ではない。 行き交う人々を安寧に導く、静けさの演出装置でもある。
部屋に置かれた花、テーブルの小さな器、控えめなガラス。 それらは、その場を「居られる状態」に整えるためにある。 旅先の記憶の中で器が残るのは、空間の質と結びついているからだ。
共通しているのは、水、滞在、温度、時間。 違いはただひとつ。 Thermalが身体の回復を扱うのに対して、Vaseは空間の回復を扱う。
身体の回復。 水に浸かり、滞在し、温度と時間の中で整っていく。
空間の回復。 光と水と余白によって、空気の質が整っていく。
彼らは、壺、花瓶、水、光が安らぎ、安寧、リラクゼーションに寄与することを知っていた。 理屈としてではなく、感覚として。 なぜかそこに安らぎを感じることを、気づかないまま信じていた。
ABUKUがやっていることは、その無意識の知恵を、今あらためて表現することでもある。
それは、何かを足して充たすということより、 余計なものが消え、光と水と余白が選ばれ、そこに居心地の良さ、Third Placeの環境が整うこと。
Vaseは、花を飾るため、あるいは、 空間を埋めるためだけにとどまらない。
都市がそこに集う人々の回復・リラクゼーションのために行っていることを、小さな器の中で静かに繰り返している存在。
だから人は、理由を知らなくても、そこに安寧を感じる。